Sincerely, me.

I wonder why they didn't just change their story

シニカルとコミカルがシリアスになって面白さが半減した映画版Dear Evan Hansen

   WEで2回観劇した作品の映画版。数年前にスクリプトと小説版を読了済み。
舞台版との比較メインで語ります。キャラ設定はキャストによっても印象が違ってると思うから確実ではないけど、スクリプトも違ったりするのでだいたいで。

   わたし的には、作品の主題がすり替わってる感があるのでアダプテーションというよりストーリーが同じ別作品という認識で落ち着いた。
まず、そもそも舞台版の何が良いのか?というと、ブロードウェイ・ミュージカルとして見たときに他の作品とは違う面白さがあること。英米ミュージカルは主人公の願望→障害→対決→克服という流れによって観客の感情移入を誘うものが多いけど、この作品では主人公がそうした成長の仕方をしない。また、ミュージカルにしては演劇的要素が大きく、類型化された登場人物たちではなく人間の実像をあぶり出すような役者たちの演技力にどっぷり引き込まれる。さらに、プロットを構成する上でのミュージカルという形式の利用方法が面白い。このように、舞台版は決してテーマやメッセージ性ありきの作品というわけではなく、ミュージカルとしての面白さという魅力があったと思う。

   では、それが映画化されたことでどうなったかというと、違う形式、違う観客層、違う価値基準の中で本来持っていたミュージカルとしての面白さが失われ、テーマとメッセージありきの作品になってしまったように見えた。
というか、制作陣がテーマとメッセージ性で勝負せざるを得ない状況に追い込まれた結果、こういう作品を作ってしまったのかもしれない。

   というわけで、「舞台版から映画版へのアダプテーションの過程でどのように作品の面白さが失われたのか」という需要のないテーマで語ります。

①    メディアの変更 ―歌の役割と魅力の喪失―
 まず一番大きな違いは、当たり前だけど演劇というメディアが映画というメディアになったこと。舞台版というのは限られた観客が実際の劇場空間で生の公演を体感するものだが、それに対して映画とは不特定多数の観客に向けて時間や場所を問わず上映されるものだ。これにより、観客層や観客が作品に期待するものも変化するため、後で述べる曲やキャラ設定の変更を行うことで適応させようとしたのだと思う。
 さらに、劇場の演劇と映画では情報量というものが圧倒的に異なる。舞台版で使われていたのはSNSスクリーンと椅子や机やベッドくらいのかなりシンプルなセットで、役者の演技や歌唱が際立つようなデザインだった。それが映画となると、よりリアルに家の中や学校といった空間を構築しなくてはならず、視覚的な情報量が大幅に増える。この作品でそれがマイナスに働いたのは、嘘を通して構築される虚構までもが観客の想像力ではなく実際のスクリーンに描かれることになったからだ。舞台版ではFor Foreverをはじめとして、実際にはなかった出来事が語られる際には、役者の歌唱と歌詞をもとに観客自身がその場面を想像するという能動的な参加が求められた。登場人物だけでなく、観客も美しいメロディーや歌詞が織りなす嘘に酔いしれるという共犯関係が生まれるのだ。しかし、映画版ではすでにその場面が映像として流れているため、観客が想像力を働かせる余地はない。それどころか、曲や歌詞の役割も薄れてしまっている。舞台版で観客がそれぞれ思い浮かべる情景を凌駕するような画が撮れるならまだいいが、はっきり言って木の高さとか日の光加減とかが現実的すぎてちょっとしょぼかった。
 このように、虚構や想像のシーンも映像を利用してリアリズム的に描写してしまうことで、観客が曲を通して自らの頭の中で虚構を構築するというエヴァンとの共犯関係が失われてしまった。主体的に曲と関わる必要性がなくなったために、曲の良さを堪能する幅もほとんどなくなり、ただ流れるだけとなってしまっていた。楽曲に最大の魅力を感じていた舞台版のファンも多いため、これは致命的な欠点だと思う。
個人的には、In the HeightsとかWest Side Storyのように舞台となる特定の場所が物語上で重要な意味を持っていて、劇場ではできない大群舞を見せ場にできるのなら、実際にその場所を大きく使ってミュージカル映画にする意義はあると思うけど、そうでないなら劇場公演の収録映像を映画館で流してくれた方が嬉しいですw The Promとかも。

②    曲の変更 ―崩壊した家族の再生というテーマの消滅―
 次に、先ほども少し述べた楽曲の変更について。ミュージカルというものは曲を通してストーリーが進行するため、これは2番目に大きな変更点だと思う。映画版では舞台版のAnybody Have A Map?という1曲目と、Disappearというエヴァンが脳内コナーと対話する曲、To Break in a Gloveというコナーの父がエヴァンに野球のグローブのお手入れ方法を教える曲、そしてGood For Youというエヴァンの母とジャレッドとアラナが自分勝手なエヴァンに怒りを爆発させる曲がカットされている。代わりに、Anonymous Onesというアラナのソロと、コナーの歌が新たに追加された。
 カットされた曲の中でも、作品のテーマをすり替えるほどの意味を持っていた曲は、オープニング・ナンバーのAnybody Have A Map?である(と個人的には思っている)。ミュージカルのオープニング・ナンバーには、作品の登場人物や場面設定、鍵となるテーマや対立する価値観を提示するという役割がある。この曲では、まずエヴァンと母親からなるハンセン家、次にコナー、ゾーイ、その両親からなるマーフィー家の朝の様子が順番に描かれる。それぞれの母親は息子に励ましの言葉をかけ、なんとか元気に学校に行ってもらおうとするが、どちらの息子にもその言葉は響かず適当にかわされてしまう。マーフィー家では妹のゾーイのトゲトゲしい態度や、仕事のためにスマホを見てばかりの父親の無関心な態度も描かれる。つまり、この曲をオープニング・ナンバーとすることで、コミュニケーションが崩壊した家族の姿が提示されていた。これにより、続く主人公のI wantソング Waving Though A Windowで歌われるコミュニケーションの難しさが多少の普遍性を持って迫ってくる。
 しかし映画版ではこれが消え、Waving Through A Windowがオープニング・ナンバーとなった。これ以外にも家族関係の曲を消し、高校生の場面や曲を増やしたことで、2つの家族の崩壊と再生を描いた物語というより、精神障害を抱えた主人公へのフォーカスを重視した物語に変化した。別にこれ自体がいいとか悪いとかいう話ではないのだが、自分の感想は↓

映画だから多くの人に感動してもらえるようにだいぶ毒気を抜いて「孤独」テーマを全面に打ち出したんだろうなっていうのはわかるんだけど、その分面白さが減っちゃった印象なんだよね…メンタルヘルスが重要テーマなのは大前提として、舞台版で描かれていた診断名も処方箋(地図)も存在しないそれぞれの人間同士のすれ違いやぶつかり合いが薄まってて、わたしはそこにこの作品の魅力を感じていたんだなと気づいた。「"map"の存在しない人間模様の中で途方に暮れ、"lost"していた登場人物たちが、偽りと暴露を経て、初めから目の前にあった絆に気づくことで、本当の意味で"found"される」というストーリーラインが失われて、「孤独→1人じゃない」という単純化されたメッセージに集約されてしまったような。

Anybody Have A Map?はタイトルからもわかる通り、最も親しいはずの家族同士ですら遠く感じる現状に関して途方に暮れた母親たちが、どのような道を通れば互いの心を通い合わせることができるのか?その道順を描いた地図は存在しないのか?と自問自答する曲だ。この地図という比喩は意外と大事で、それはYou Will Be Foundという1幕最後の曲と呼応しているからだ。この歌詞は誰に向けて発されたメッセージかというと、lostしている人々である。自分が世界でひとりぼっちのように思える人、殺伐としたS N S上で取り残されたように感じる人、ヘイディとシンシアのように人間関係構築のための地図が欲しいと願っている人々に響いたから、このスピーチは拡散されていったのだと考えられる。しかし舞台版の演出では、エンディングでFor Foreverのリプライズとともに、果樹園に立つエヴァンの背景で全ての登場人物が一列に並び、横を見て互いを見つけ合い、手を繋いで空を見上げるというような演出になっている。これは結局、S N S上の一方的で見えない反響ではなく、目の前にいる身近な人々同士がお互いをfind each otherすることでlostという状態でなくなるということを示していると思う。
   だが、映画版ではエヴァンがS N Sを駆使して本物のコナーの映像を手に入れ、家族などに配るというエピソードが追加されている。さらに、映画版では崇高な意義のあることとして実行されていたコナープロジェクトも、舞台版では残された人間たちのエゴっていう側面は否定されていなかった。小説版ではもはや果樹園だけひっそりたてて後は自然消滅っていう扱いだった。舞台はそのとき同じ空間に存在する人たちと共有するものだが、映画はスクリーンを通して世界各地の不特定多数と繋がるものだから、そこらへんのメッセージ性の扱いはメディアとの相性もあるのだろう。だが、崩壊した家族の再生という側面が失われたために、なぜエヴァンの嘘がマーフィー家を救ったことになるのかがわからなくなってしまっていた。映画だけ見た人の感想眺めてると主人公の嘘の罪が大きすぎるというものが多いが、多分これは改変の弊害だと思う。舞台版だとマーフィー家もそんな温かい家庭じゃなくて、エバァンに騙されたというより自分たちの罪悪感を和らげるためにエバァンの嘘を利用した側面が明確だからもうちょっと罪が相殺されていた。Anybody Have A Map?があれば、もともとマーフィー家も崩壊してたことがわかるけど、それがないせいで「良き家族」をエバァンが勝手な憧れで介入して崩壊させたみたいになってて若干可哀想だった。

③    キャラ設定の変更 ―エゴイスティックな人間の本質の修正―
   エゴイスティックな人間たちがエゴイズムをぶつけ合う舞台版とは異なり。映画版のキャラたちはみんな、まさに"be yourself... but more approachable version of yourself!"という感じだった。
   中でもAlanaのキャラが変わりすぎていて、映画版だけ見たら良いシーンだと思うのかもしれないけど、舞台版の「ちょっと鬱陶しくて周囲から邪険に扱われがちだけど本当は深い孤独を抱えている」ということが伝わってくる演技も好きだったので残念だった。誰かも言ってたけど、いつも芝居がかってて鬱陶しい感じあるけど、"Because I know how it feels like to be invisible!"みたいなセリフだけ、正真正銘の本心を曝け出したんだなということが伝わり、彼女を鬱陶しく感じていた観客も自身の冷ややかな視線を突きつけられる…という容赦のない流れ。Alanaが象徴してたの「孤独に見えない子の孤独」というより、「『孤独だから必死だけど空回っちゃってるのが丸わかりの痛い子』の孤独を知りながら遠巻きに冷笑する我々」って感じだったから、このキャラ変はかなり大きい。
あとLarryのキャラ。義父設定は役者の人種が違うかららしいという情報を見かけたけど、「仕事を言い訳に家庭の厄介ごとは妻に丸投げする父親」が「血が繋がらずとも、他の男の手には追えなかったコナーを彼なりに愛した良い父親」に変化してるのも作品をぬるっとさせてるなって感じてしまった。
   別に映画化の意義は理解できるし難癖をつけたいわけではないんだけど、どの登場人物にも好感は持てないのになぜかちょっと共感できてきまう舞台版から、「より広く多くの観客の共感を呼ぶためにキャラ設定を修正して好感度をアップさせる」という行為の意味については考えてしまう。舞台版はエゴイストたちの群像劇としてもっと人間の本質を炙り出すような作品だったから、メンタルヘルスの教材化されてしまったのは、うん。教材が必要でないという意味ではなく、そもそも教材に相応しい作品ではないからうまくいってないよねって感じだった。

その他気になった点メモ
・あとやっぱり真実を告白したら相当エバァンも炎上して日常生活に脅威を及ぼすレベルになるかもしれないから、ちゃちゃっとストーリーをアップしておしまいというのはどうしてもリアリティに欠けちゃう
・そういえばDEH映画版の校内のシーンでやたら多様性を訴えるメッセージが書かれたポスターが映されていたけど、背景画像を通して観客にメッセージを送っているのか、それともストーリーとも相まってその空回りしてる部分を皮肉ってるのかがよくわからんかった…
細かいけど、エバァンがラリーに「君のお父さんも君のような息子を持って誇りに思っているだろう」みたいなこと言われてごまかすために肯定しちゃったのをTo Break in the Gloveの後に訂正するところが好きだったんだけど、曲とともに消えてた。
・You Will Be Foundがなかなか陳腐 
・↑が始まる前にEvanが1度スポットライトから陰へと逃げ込むけど、意を決してライトの中に戻って立ち上がるという動きがない 
・木のてっぺんが意外と暗い、もっと輝いてるイメージだった 
・落ち方を写したシーンの映像が曖昧でわかりにくい