Sincerely, me.

I wonder why they didn't just change their story

魔法だらけのユートピアはなぜ社会病理だらけなのか?『ミラベルと魔法だらけの家』

ミラベルちゃんの魔法だらけの家、過労死寸前の力持ち姉さんと、鬱病寸前の完璧主義姉さんと、引きこもりの予言叔父さんと…ってただの社会病理だらけの家だった。これだけ社会問題詰め込んでいるのに「家族愛の物語」で片付けられちゃうのはもったいなく感じたので、マドリガル家を現代社会の縮図として捉えたときに見えてくるテーマについて語ります

「Encantoにおける能力社会の闇」

 この作品は、代々魔法の力を授けられる一族の中で、なぜか一人だけ魔法を与えられなかったミラベルという少女が主人公の物語である。それぞれの才能を活かして輝く自慢の家族を見ながら、何もできないと落ち込むミラベル。自分も少しでも愛する家族の役に立ちたいと頑張ってみるがうまくいかず、逆に家族には邪魔者扱いをされてしまう始末。そんなとき、ミラベルは家族を守る魔法の家が崩壊しかけていることを知る。みんなの役に立つチャンスだと考えて家を救おうとするうちに、才能を謳歌させて輝いているように見えた家族の内面が明らかになる。今回は、この物語を新自由主義的な社会における能力至上主義や生産性至上主義による弊害を描き出した作品として、見ていきたい。マドリガル家は、個人の能力や生産性という価値基準が労働の場のみならず、人間としての価値を判断する基準とまでなっている状態になっている。つまり、自分の存在価値を認めてもらうために、常に自分が「役に立つ」「有用である」」ことを証明し続けなければならなくなっているのだ。魔法だらけのユートピアであるはずのマドリガル家を、社会病理だらけのディストピアにしてしまった原因は、ここにあると考える。

 まず、マドリガル家のどのような場面にこのような状態が示唆されているかを振り返る。マドリガル家は奇跡のロウソクを授かって以来、その子孫は特別な魔法の力と光るドアのついた自分の部屋を与えられるようになった。この魔法の力がgift(「贈り物」及び「才能」の意)と呼ばれていることから、現実社会に照らし合わせるとこれは天性の才能や特別な能力の比喩であると捉えることができる。また、それぞれの魔法は、コミュニティの繁栄に役立てられている。この「個人の才能は、社会発展に貢献する手段として用いなければならない」という考えは、たびたび祖母が示している。例えばThe Family Madrigalで彼女が歌うパートや、魔法を覚えたてのアントニオにかける言葉が象徴的だ。エンカントにおける仕事は、それを専門分野とするマドリガル家のメンバーによって担われている。物を運ぶのはルイーサ、飾りつけるのはイサベラというように。逆にミラベルが手伝おうとすると、祖母に彼女たちの邪魔になるから「お前は何もするな」と言われる。こうした様子からわかるのは、才能を持って生まれるのが「普通」のマドリガル家で魔法を持たないミラベルが「欠陥」を抱えているかのようになってしまっていること。さらに、魔法という能力がないことが社会の役に立たない、つまり生産性がないことと同等に扱われているということだ。ミラベルの両親は優しいのでミラベルの自己肯定感を何とかあげようと慰めるが、説得力がないのであんまり効果はない。感想を見ていると、「なんでミラベルに魔法がなかったのかがわからないままだった」というのを結構見かけたが、現実世界でも生まれてきたときの才能の有無に何かしらの明確な理由などあるだろうか。遺伝や環境や努力も多少関係あるかもしれないが、ほとんど運である。つまり、魔法を持って生まれた理由も持たずに生まれた理由も存在しないからこそ、魔法がその人の存在価値になっている状態がダメなのである。むしろ魔法がない理由を探すことは、その人の落ち度を探し出してこの世の不条理からくる自らの罪悪感を紛らわせることに繋がる。

 しかし、マドリガル家が異常に冷酷な家族という設定で描かれているわけではない。現代の新自由主義社会で蔓延る価値観そのままであるとも言えるのだ。例えば政府による少子化対策の目的は、労働力の再生産つまり社会の役に立つ能力を持った人間を増やすことだ。ここでは人間が労働力として非人格化されている。The Family Madrigalの祖母もまさに、エンカントの発展のために魔法を子孫へ受け継いでいこうというようなことを言っている。労働力を必要とするわりに、無能な人材はかえって生産性を低下させるから必要ないと切り捨てられるため、この世に存在するためには優秀な人材にならなくてはならない。現代社会においては、そうしたプレッシャーの中で、子どもの頃から塾に通ったり資格取得に励んだりして自分の市場価値を高めながら、受験戦争やら就活やらの競争を生き残るために必死にならざるを得ないという殺伐とした状況が広がっている。さらに「高学歴で有名企業に入って高収入の生活をする」という謎人生を理想的で完璧な「人生の成功モデル」とする謎風潮を作ることで、そのレールから外れた人生は失敗であるかのようになる。このように市場価値が所得のみならず人間としての自尊心までも決定づけてしまう状況を思うと、マドリガル家は現代社会の縮図であるとも考えられる。(*ただし、現実では能力を努力によって獲得するものとする努力信仰も根強いため、能力がないとみなされることがより人格否定に繋がりやすい。マドリガル家は奇跡のろうそくか何かが勝手に魔法を授けるので、ミラベルの才能の欠如は本人の努力不足に責任があると糾弾させるまでには至っていない。)

 本作においては「では、こうした状況によって家庭(社会)にはどのような弊害が生まれているか?」ということがミラベル、ルイーサ、イサベラという3姉妹を中心に描かれ、ストーリーの核となっている。ルイーサは、かつては主に男性に負担が集中していたであろう、一家やコミュニティの大黒柱としての重圧のようなものを抱えている。しかし、彼女のいういつも綱渡りしている気分や、どんな仕事も迷わず承諾しなくてはならないという強迫観念は、現代社会の被雇用者が受ける普遍的なプレッシャーとも言える。このキャラは単に伝統的な男性像を反転させただけというよりは、女性だからこそ「これだから女はダメなんだ」と言われてしまわないようにしなくてはならないという女性ならではのプレッシャーを表現していると捉えることもできる。はっきり言ってルイーサ姉さんは過労死寸前の状態だ。一方でイサベラは、家族を喜ばせるためにしたくもない結婚をしようとする。イサベラの婚約について、特に祖母は、完璧な男女が結婚してマドリガル家に新たな繁栄をもたらしてくれるわねというような恐ろしいことを言っていた(確か)。これは、美しい女性の完璧な人生には「幸せな結婚」が不可欠という異性愛規範と恋愛至上主義への直接的な批判だ。しかし、イサベラが設定上22歳だということを照らし合わせると家族を安心させるために有名企業を目指して就活に励む学生の姿も想起されてしまう。こんなことをしていては、完璧な人生を鼻にかけて他の人を見下すことで自分の人生の空虚さを紛らわせるか、そのうち自分の不幸さを自覚して鬱病になるかしかない。ミラベルは見ての通り、劣等感に苛まれ続けており、観客からしたらこんな環境で生きていくなんて耐えられそうもないくらいの状況だ。しかし、これらは実際の社会でもものすごくよく起こっていることである。もしそう感じられないのならその人自身が恵まれているから目に入っていないだけかもしれない。

 なぜなら、こうしたそれぞれの葛藤はマドリガル家の中で巧妙に隠されていたし、現実社会でも同じだからだ。アントニオの儀式後、壁に走ったヒビをミラベルが目にして、家族に知らせようとしたのに他の人には見えなかったというのはそのことを象徴的に示している。ミラベルはその際、実際に手を怪我してしまうが、それでも家族はミラベルの幻覚か気のせいだと思ってまともに取り合ってくれない。現実社会でも、鬱病、引きこもり、過労などは社会環境ではなくその人自身の「メンタルの弱さ」が原因とされることが今でも多い。社会の歪みというのは、例えば差別問題などもそうかもしれないが、その社会のマイノリティの側からしか見えにくいものだ。この作品においては、他の家族もミラベルの苦しみには気づきながらも見て見ぬ振りをしていたり、良い接し方がわからなかったりしていたように見える。それは、自分たち自身もミラベルと同じように歪んだ社会に属しているという現実を直視できない彼ら自身の弱さの表れとも取れるだろう。さらにこの問題は、なぜマドリガル家ではブルーノの名前が禁句なのか?ということにも繋がる。ブルーノは完璧な一家の中で、うまく適応できずに失踪した人物だ。つまりそうしたブルーノの存在そのものが、ユートピアであるはずのマドリガル家の欠陥を証明してしまう。だから彼に関する話題を禁じて存在しないものとして扱うことで、ユートピアとしての虚像を保っているのである。

 作品の中では、ミラベルがヒビだらけの家を崩壊から救おうと行動し始めることで、こうしたマドリガル家に潜むさまざまな矛盾が明らかになり、ユートピアの虚像が崩れ去る。結末がよくわからないという声も多いが、この問題がどう解決したかというと、虚像を維持するためにそれぞれが隠していた苦しみを自他に対して認め、「能力が人間の価値を決めるわけではない。人間は役に立とうが立つまいがその存在そのものが奇跡なのだ」という考えにシフトしたのである。吹き替えではわからなくなっていると思われるが、原語ではミラベルのI wantソングWaiting On A MiracleとフィナーレAll of Youの間で様々な歌詞の対比が見られる。例えば、最初はミラベルが他の家族たちに向かってわたしの苦しみ、あなたたち自身の苦しみに"open your eyes"して気づいて!と訴えていた。それが最後には家族の方がミラベルに"open your eyes"して「そのままのあなたの価値に気づきなさい…」と語りかけている。これは、周りだけでなく最も根強い自分自身の呪縛も解いてようやく、生産性至上主義からの解放が得られるということを示している。また、All of Youでおばあちゃんがミラベルに「ドアノブに何が反射して見える?」と聞いてミラベルがAll of meと答える箇所は、「魔法がなくても自分に欠陥があるわけじゃない」ということを表している(そのはずだが、吹き替え音源だと「未来が見える」と言っており、将来的な成長や発展を想起させる「未来」という言葉を用いることで、「何もしない今のままの自分で十分なのだ」というメッセージと思いっきり矛盾させてしまっている)。さらに、Waiting On A Miracleでは、like all of you shine「あなたたちみんなが輝いているように(わたしも輝けるようになりたい)」と言っており、ここではミラベル 対 他の家族全員という対比が生まれていた。しかしフィナーレのAll of Youは、誰もが(all of you)「何かを証明しなくても、欠陥などない完全な自分(all of me)なんだ」という二重の意味を通してミラベルと家族、ひいてはコミュニティの全員を包摂しているのである。

 ところで、この作品における「奇跡」のろうそくとはいったい何だったのだろうか。おばあちゃんがろうそくの炎を燃やし続けることに以上な執着を持ち、ろうそくが消えるとこの家は終わりだというような悲壮感を持っているのは、ろうそくが実は奇跡ではなく呪いでもあるからだと思う。ろうそくは、資本主義下で絶やすことができない消費の欲望と、労働の生産性の象徴であると捉えることができる。資本主義によってさまざまな発明や技術の発展が可能になり、人々の生活は激変した。まさに奇跡と言えるほどに。しかし、何事にもさまざまな側面がある。おばあちゃんも元々エンカントの安定のために与えられた奇跡の魔法を有効活用しようと考えていたはずだ。しかしいつの間にか、奇跡の存続のためにマドリガル家の子孫を残さなくてはならないという思考の逆転が起こってしまっていた。これは、人々の生活をより便利に豊かにするためではなく、市場経済の循環を絶やさないことそれ自体が目的化されている状況と重なる。それは一見豊かさを生んでいるようでありながら、実は無自覚のうちに人々の人間性を蝕んでいっているという側面もあるかもしれないのである。結末でろうそくが戻っていたか記憶が曖昧でよく覚えていないが、戻っていたら資本主義を否定したいというより、新自由主義の弊害への問題提起をしようとしたというところになると思う。もし消えたままだったら、新しい仕組み(家の建て直し)が必要だということかもしれない。ちなみに個人的にはフィナーレの"The stars don't shine, they burn"「スター(空の星と人間のスターをかけている)は輝いてるんじゃなくて燃えてる」という歌詞が、「才能を発揮して輝かしい人生を歩んでいる人たちは、実は命を削って自分を燃焼させてるからそのうち燃え尽きるし、頑張るのはやめた方がいいよ」って意味に聞こえてしまうw

 ここまでマドリガル家を現代社会の縮図としてみてきたが、マドリガル家は同時に、ある一人の人間の中に同居している様々な葛藤の体現でもあるのではという気がしている。その理由は、イサベラだ。彼女は確かに素晴らしい魔法をお持ちだが、ミラベルを邪険に扱うなど人によって態度を変えるあたり優しさみたいなのは欠けているため、完璧という形容詞の使い方が正しいのかは疑問だ。普通「完璧な人」というと人柄も含めて非の打ち所がない人のこと指すのではないだろうか(日本語と英語でニュアンスが違う可能性は十分あるが)。しかし、あえてイサベラをミラベルいじめの加害者とすることで、アナ雪のオマージュという以外にも、自己肯定感が低い人や鬱病の人の脳内に存在する「自分を責め立てる声」を体現するという効果が生まれていると感じた。また、ブルーノが十字を切ったり塩をまいたりといつも何かを恐れているのは、統合失調症の症状とも一部通ずる。ペパはブルーノに一言雨と言われただけで頭の中がその言葉でいっぱいになってハリケーンを起こしたり、息子の儀式の前にもアントニオが行方不明だ!とキリキリしたりしているが、これは強迫性障害の症状とかなり似ている。フィクションのキャラというのは、個性的に仕上げようとすると大体こうした特徴が強調されて意図的かどうかは不明なこのような現象が起こる(有名なのはクマのプーさん。アナ雪もエルサはA S DやS A D、アナはA D H Dの特徴を持っている)。それはどんな人間も多かれ少なかれそうした性質を持っているからであり、マドリガル家のメンバーの個性も、一人の人間が内部に密かに抱えているものと捉えることも可能だろう。

 以上をまとめると、マドリガル家は能力や生産性による労働者としての市場価値が人間としての存在価値と同一視されがちな「現代社会の縮図」及び「その中で生きる一人の人間の葛藤の具現化」として描かれたものと見ることができる。自分の才能を活かして社会貢献するミラベルの姉さんたちの姿は、これまでエルサやモアナを通してディズニー自身が理想的な成功モデルとして提示してきた人物像だ。その彼女らの苦しみや、姉のようになれないミラベルの苦しみを描くことは、ディズニー自身が覆い隠してきた問題の存在を認めることに他ならない。よって、この作品は女性の「結婚」の次に、女性の「活躍」を美化してきたディズニーの系譜の中でも転換点になるのかもしれない(し、ならないかもしれない)。個人的には、小学生の子どもとその親世代よりも、能力主義がますます加速した現代の絶え間ない激しい競争社会を生きる10代後半〜の若者あたりの方が響きそうだと思った。しかし、このテーマをうまく描き切っているか?というのはまた別の問題なので、ここからはこのテーマで作品を読み解く際にこの作品が抱える欠点を挙げてみる。

欠点①
能力主義を加速させ続ける存在が、家族の平和を守りたいがあまり方向性を間違えてしまったおばあちゃんになっているところは、ミスリーディング。実際には「利益追求」という欲望が効率性や生産性の神聖視につながっているため、明確な悪役を登場させなかったのは家族ストーリーとしてはどうか知らないが、このテーマで作品を見るときには誰かの欲望を満たすための搾取構造という真実を捉えていない事になる。能力主義の弊害を家族という枠組みの中で完結させて描いてしまったせいで、社会問題と通ずる部分が見落とされがちなのも失敗なのでは。あと南米の政情不安や難民の存在は、資本主義国家の先進国による搾取が原因にもなっているから、搾取される側のコロンビアを舞台にした作品でこのテーマを扱うのはどうなんだろうとも思ったけど、新自由主義の弊害を両面から描けたことにもなるのかな?

欠点②
特別な才能を持たないミラベルを主人公とすることの意義はもちろんあるが、この問題の場合、本来ならミラベルじゃなくて能力主義の恩恵を受けている側こそが、自分自身が抱えているプレッシャーにも、こぼれ落ちた人々の苦痛にも気づいてどうにかすべきだと思う。能力主義の弊害に対処することが能力なき者の能力の発揮の機会とされるのは、特権側にとってあまりにも都合が良いし非現実的。ミラベルの場合は「あなたは何もしなくていいのよ(するな)」で済んでるのに、自分から「わたしも何かしたい」ってなってるパターンだけど、現実は「お前は無能で邪魔だからここでは必要ない」と言われ続けながら「無能なのはお前の怠惰と努力不足だ何もしないのは許さん」とも言われるから、「能力がないからと言って何もしないのはダメ」みたいな意識が働いているのかね。

欠点③
血縁を重視しすぎている。根本的なとこでいうと、なんでマドリガル家にだけ魔法が与えられて、マドリガル家だけが魔法を受け継ぐのかがわからない。同じように迫害されて共にコミュニティを築いた人々がたくさんいるのに、マドリガル家だけ立派な家あるの謎に不公平では?ミラベルちゃん、エンカントの住民の中で無作為に魔法を持つものが現れるわけではなく、マドリガル家の血筋を引くものが代々受け継いでるから、余計しんどいんだよね。生まれながらに特別な地位や力や肩書きが与えられていて、それに縛られてるプリンセスの類型もそろそろ打破してほしい。あと、家族の絆は強いに越したことはないけど、もし家族の存在が自分にとって有害だと判断した場合は縁を切るのも大事な選択肢だと思います。

欠点④
結末で結局能力の発揮が個人の幸福と結びつけられているところは、完全に微妙。
「ミラベルの魔法はカシータで、エンカントの家そのものを司ってるから自分の部屋が与えられなかったのでは。ミラベルの自分だけ魔法が使えないという勘違いプレッシャーによって彼女の魔法の力(=家族の絆)が弱まって家が崩壊する。最後のドアノブもそういうこと。」という主旨の考察に深く頷いたものの、やっぱりミラベルにも最初から魔法ありましたーとも解釈できるようにするのは、メッセージとしてどうなんだろう。解釈の可能性が限られていないっていう意味ではよくできてるし面白いと思います。
結論の描き方はSoulful Worldの方が良かったかなと思います。家族の誇りとか絆とか関係なく、お日さまが綺麗で風が気持ちよくて、生きてることが心地よければそれだけで生きてていいんだよね。

結論
 ただ、こうした欠点もあるものの、人格や人間性や対人関係にも自信がない人が余計追い詰められそうな「優しさがあれば能力はいらない」みたいなありがちなメッセージではなくて「そのままで大丈夫」にしようとしてたのはよかった。ちゃんと説得力を持って伝えられてたかは別だけど…
 あと、最近ありがちな能力を発揮できないプリンセスが「自分らしさの解放(と見せかけた生産性の高い社会貢献)が1番」ってポジティブに謳うんじゃなくて、何がどうしてどうしんどいのかっていう部分を丁寧に描こうとしているのと、「ありのままの自分」を才能の有無に左右されない存在の承認にしようとしているのはよかったと思う。

その他適当な感想
・ミラベルの魔法だらけの家は、ディズニーリゾートにも建てるべき!!!LMMの音楽に包まれながら、いろんな部屋周るっていうアトラクションにもってこいでは???ついでに他のキャラの追加曲も作ってさ
・ミラベルもっと共感呼べそうなのに知名度いまいちだから、やっぱりエルサのような「能力をあえて隠す苦しみ」の方が「無能さを自覚する苦しみ」よりもメジャーなのかな?もし曲のぶっ飛んだ大ヒットがなかったらどうなっていたのか、ちょっと気になる。
・特殊能力があるが故に社会の脅威としてみなされ追い出されたエルサとは異なり、自分だけ能力が欠如しているがために社会不適合者だとされ無能扱いされるミラベルちゃん…
・イサベラちゃん、サボテン一つ出しただけで突然何かに目覚めてぶっ飛んでいくの、展開早すぎて面白いけど可愛い。
・ルイーサのキャラと能力はジェンダーステレオタイプの転換を意識しているのに、ミラベルのお母さんは料理と治癒という典型的な「ケア」する者としての役割が融合させられて「いいお母さん」像になってるよね。あんまりまだその辺勉強できてないからよくわかんないけど。
・The Family Madrigalで、おばあちゃんの視点から家の内部を俯瞰するカメラワークが好きすぎる。ミラベルちゃんのお部屋、1番遠くにあるの切ない。
・ミラベルの群像劇ミュージカルっぽいとこ好きだったな。全ての家族メンバーに1曲ずつ作ったバージョンが切実に欲しい。
・Encantoの曲、耳に残りにくいって不評だけど、ミュージカルの曲はキャッチーさだけが価値じゃなくて、ストーリーの中で意図を伝えるためにうまく機能しているかも大事だと思うから、Waiting On A Miracleとかその悲痛さゆえに扱ってるテーマの性質をよく表したI wantソングだと思ったよ。
・あとこの作品の場合、観客自身が耳慣れている音楽が偏っているために、この作品の曲のリズムとかメロディーに慣れてないから余計覚えにくいと感じてるとかもありそう。知らんけど。
・ミラベル、宣伝だけ見たら三姉妹のシスターフッドがメインの話かと思いきや、家族に邪険に扱われる女の子と引きこもりの叔父が心を通わせて自分たちを受け入れなかった家族を助けてあげたとこの方が印象的だったね。本人には何も落ち度はないのに周囲によって謎基準や謎資格を満たさないとみなされたがために「自分はマドリガル家(=社会)の一員ではない、社会不適合者なのだ」と自らを追い詰めていく様子がリアルすぎてあまりにも辛い2人だった
・We Don't Talk About Bruno、みんながブルーノのせいで不幸が訪れた!って騒ぎ立ててる中、"He told me that the life of my dream is promised and someday be mine"って呟いてるイサベラパートが切なすぎる。この予言を命中させるために好きでもない男と結婚しようとして自ら不幸になってるという…。ブルーノおじさんも、可愛い姪に明るい予言をしてあげられるって内心嬉々としてこの予言を教えてあげたんだろうなって思うと余計切ない。
・Waiting On A Miracle、ママの魔法を指して"I can't heal what's broken"って言ってたのが、"I would heal what's broken"ってこれから家と家族を修復する自分のことを無意識に言い当ててるの好き。
マドリガル家はエリートだらけの有名大学だし、ドアの儀式は面接だし、イサベラにとっての望まない婚活はどう見ても就活だし、ルイーサはブラック企業で過労死寸前の社会人() 特にイサベラってちょうど22歳なんだよね。
・ミラベル、作品としての完成度がどうこうというよりとにかく面白い。ラプンツェルよりモアナよりアナ雪より全然面白い。あとサントラ聞いてても主人公の成長過程がみえるというより群像劇的に家族像が浮かび上がってくる感じなのも新しい気がする。
・なんでおばあちゃんには光るドアがあるんですか??
・Encantoの予告映像、単なるキャラクターの自室の映像をさも世界のあちこちを冒険しているかのように切り貼りしてるから、結構ミスリーディングだと思う。
・あとミラベルの日本語版の歌詞、「〜たり〜たり」となるべきところ「〜たり」になってるのが気になる。日本語の文法知らないわけはないだろうけど、子どもが触れるものだから、音数合わせるためか何かだったとしてもすごい気になってしまう。
・ミラベルちゃん、Waiting on a Miracleって魔法じゃなくて奇跡って言ってるのえぐい。子供なんて無事に生まれてきてくれただけで奇跡として崇め奉るべきなのに、子供自身が家族に愛されるために奇跡を夢見てる状況って本当に社会の歪みを表してる…
・自分の中、イサベラちゃんとミラベルちゃんが同居してて、脳内でイサベラパートによるミラベルパートへのいじめが日常的に行われているから二人のシーンめちゃくちゃしんどかったな。というか自分が鬱病になったの、イサベラの苦悩とミラベルの苦悩がダブルパンチで来たからかもしれん
・てか1番心にブッ刺さったの、イサベラが別に結婚なんかしたくないしその人のことも愛してないのに、(美しくて華やかな女性の)「完璧な人生」には素敵な男性との結婚が不可欠っていう社会の異性愛規範と恋愛至上主義の圧力で、なぜか望んで結婚をしようとしてるみたいになってたとこだよね…わたしも恋愛願望みたいなのはないんだけど、彼氏がいると周りからの視線が変わったりするから、そういう意味で(社会での自分の居心地をよくするために)欲しいって思ってしまうのはわかる。日本の「リア充」って言葉とかまさにこういう謎風潮の体現だと思うし…
・ミラベルについて考え続けてると、そもそも「家族の誇りになりたい/ならねば」という思いが諸悪の根源な気がしてきてしまったw もっと言うとそういう強迫観念を植え付け搾取することで都合のいい労働力を確保しようとする社会構造がヤバいのかな。扱ってる問題が大きすぎて落とし所つけ辛いのもわかる

シニカルとコミカルがシリアスになって面白さが半減した映画版Dear Evan Hansen

   WEで2回観劇した作品の映画版。数年前にスクリプトと小説版を読了済み。
舞台版との比較メインで語ります。キャラ設定はキャストによっても印象が違ってると思うから確実ではないけど、スクリプトも違ったりするのでだいたいで。

   わたし的には、作品の主題がすり替わってる感があるのでアダプテーションというよりストーリーが同じ別作品という認識で落ち着いた。
まず、そもそも舞台版の何が良いのか?というと、ブロードウェイ・ミュージカルとして見たときに他の作品とは違う面白さがあること。英米ミュージカルは主人公の願望→障害→対決→克服という流れによって観客の感情移入を誘うものが多いけど、この作品では主人公がそうした成長の仕方をしない。また、ミュージカルにしては演劇的要素が大きく、類型化された登場人物たちではなく人間の実像をあぶり出すような役者たちの演技力にどっぷり引き込まれる。さらに、プロットを構成する上でのミュージカルという形式の利用方法が面白い。このように、舞台版は決してテーマやメッセージ性ありきの作品というわけではなく、ミュージカルとしての面白さという魅力があったと思う。

   では、それが映画化されたことでどうなったかというと、違う形式、違う観客層、違う価値基準の中で本来持っていたミュージカルとしての面白さが失われ、テーマとメッセージありきの作品になってしまったように見えた。
というか、制作陣がテーマとメッセージ性で勝負せざるを得ない状況に追い込まれた結果、こういう作品を作ってしまったのかもしれない。

   というわけで、「舞台版から映画版へのアダプテーションの過程でどのように作品の面白さが失われたのか」という需要のないテーマで語ります。

①    メディアの変更 ―歌の役割と魅力の喪失―
 まず一番大きな違いは、当たり前だけど演劇というメディアが映画というメディアになったこと。舞台版というのは限られた観客が実際の劇場空間で生の公演を体感するものだが、それに対して映画とは不特定多数の観客に向けて時間や場所を問わず上映されるものだ。これにより、観客層や観客が作品に期待するものも変化するため、後で述べる曲やキャラ設定の変更を行うことで適応させようとしたのだと思う。
 さらに、劇場の演劇と映画では情報量というものが圧倒的に異なる。舞台版で使われていたのはSNSスクリーンと椅子や机やベッドくらいのかなりシンプルなセットで、役者の演技や歌唱が際立つようなデザインだった。それが映画となると、よりリアルに家の中や学校といった空間を構築しなくてはならず、視覚的な情報量が大幅に増える。この作品でそれがマイナスに働いたのは、嘘を通して構築される虚構までもが観客の想像力ではなく実際のスクリーンに描かれることになったからだ。舞台版ではFor Foreverをはじめとして、実際にはなかった出来事が語られる際には、役者の歌唱と歌詞をもとに観客自身がその場面を想像するという能動的な参加が求められた。登場人物だけでなく、観客も美しいメロディーや歌詞が織りなす嘘に酔いしれるという共犯関係が生まれるのだ。しかし、映画版ではすでにその場面が映像として流れているため、観客が想像力を働かせる余地はない。それどころか、曲や歌詞の役割も薄れてしまっている。舞台版で観客がそれぞれ思い浮かべる情景を凌駕するような画が撮れるならまだいいが、はっきり言って木の高さとか日の光加減とかが現実的すぎてちょっとしょぼかった。
 このように、虚構や想像のシーンも映像を利用してリアリズム的に描写してしまうことで、観客が曲を通して自らの頭の中で虚構を構築するというエヴァンとの共犯関係が失われてしまった。主体的に曲と関わる必要性がなくなったために、曲の良さを堪能する幅もほとんどなくなり、ただ流れるだけとなってしまっていた。楽曲に最大の魅力を感じていた舞台版のファンも多いため、これは致命的な欠点だと思う。
個人的には、In the HeightsとかWest Side Storyのように舞台となる特定の場所が物語上で重要な意味を持っていて、劇場ではできない大群舞を見せ場にできるのなら、実際にその場所を大きく使ってミュージカル映画にする意義はあると思うけど、そうでないなら劇場公演の収録映像を映画館で流してくれた方が嬉しいですw The Promとかも。

②    曲の変更 ―崩壊した家族の再生というテーマの消滅―
 次に、先ほども少し述べた楽曲の変更について。ミュージカルというものは曲を通してストーリーが進行するため、これは2番目に大きな変更点だと思う。映画版では舞台版のAnybody Have A Map?という1曲目と、Disappearというエヴァンが脳内コナーと対話する曲、To Break in a Gloveというコナーの父がエヴァンに野球のグローブのお手入れ方法を教える曲、そしてGood For Youというエヴァンの母とジャレッドとアラナが自分勝手なエヴァンに怒りを爆発させる曲がカットされている。代わりに、Anonymous Onesというアラナのソロと、コナーの歌が新たに追加された。
 カットされた曲の中でも、作品のテーマをすり替えるほどの意味を持っていた曲は、オープニング・ナンバーのAnybody Have A Map?である(と個人的には思っている)。ミュージカルのオープニング・ナンバーには、作品の登場人物や場面設定、鍵となるテーマや対立する価値観を提示するという役割がある。この曲では、まずエヴァンと母親からなるハンセン家、次にコナー、ゾーイ、その両親からなるマーフィー家の朝の様子が順番に描かれる。それぞれの母親は息子に励ましの言葉をかけ、なんとか元気に学校に行ってもらおうとするが、どちらの息子にもその言葉は響かず適当にかわされてしまう。マーフィー家では妹のゾーイのトゲトゲしい態度や、仕事のためにスマホを見てばかりの父親の無関心な態度も描かれる。つまり、この曲をオープニング・ナンバーとすることで、コミュニケーションが崩壊した家族の姿が提示されていた。これにより、続く主人公のI wantソング Waving Though A Windowで歌われるコミュニケーションの難しさが多少の普遍性を持って迫ってくる。
 しかし映画版ではこれが消え、Waving Through A Windowがオープニング・ナンバーとなった。これ以外にも家族関係の曲を消し、高校生の場面や曲を増やしたことで、2つの家族の崩壊と再生を描いた物語というより、精神障害を抱えた主人公へのフォーカスを重視した物語に変化した。別にこれ自体がいいとか悪いとかいう話ではないのだが、自分の感想は↓

映画だから多くの人に感動してもらえるようにだいぶ毒気を抜いて「孤独」テーマを全面に打ち出したんだろうなっていうのはわかるんだけど、その分面白さが減っちゃった印象なんだよね…メンタルヘルスが重要テーマなのは大前提として、舞台版で描かれていた診断名も処方箋(地図)も存在しないそれぞれの人間同士のすれ違いやぶつかり合いが薄まってて、わたしはそこにこの作品の魅力を感じていたんだなと気づいた。「"map"の存在しない人間模様の中で途方に暮れ、"lost"していた登場人物たちが、偽りと暴露を経て、初めから目の前にあった絆に気づくことで、本当の意味で"found"される」というストーリーラインが失われて、「孤独→1人じゃない」という単純化されたメッセージに集約されてしまったような。

Anybody Have A Map?はタイトルからもわかる通り、最も親しいはずの家族同士ですら遠く感じる現状に関して途方に暮れた母親たちが、どのような道を通れば互いの心を通い合わせることができるのか?その道順を描いた地図は存在しないのか?と自問自答する曲だ。この地図という比喩は意外と大事で、それはYou Will Be Foundという1幕最後の曲と呼応しているからだ。この歌詞は誰に向けて発されたメッセージかというと、lostしている人々である。自分が世界でひとりぼっちのように思える人、殺伐としたS N S上で取り残されたように感じる人、ヘイディとシンシアのように人間関係構築のための地図が欲しいと願っている人々に響いたから、このスピーチは拡散されていったのだと考えられる。しかし舞台版の演出では、エンディングでFor Foreverのリプライズとともに、果樹園に立つエヴァンの背景で全ての登場人物が一列に並び、横を見て互いを見つけ合い、手を繋いで空を見上げるというような演出になっている。これは結局、S N S上の一方的で見えない反響ではなく、目の前にいる身近な人々同士がお互いをfind each otherすることでlostという状態でなくなるということを示していると思う。
   だが、映画版ではエヴァンがS N Sを駆使して本物のコナーの映像を手に入れ、家族などに配るというエピソードが追加されている。さらに、映画版では崇高な意義のあることとして実行されていたコナープロジェクトも、舞台版では残された人間たちのエゴっていう側面は否定されていなかった。小説版ではもはや果樹園だけひっそりたてて後は自然消滅っていう扱いだった。舞台はそのとき同じ空間に存在する人たちと共有するものだが、映画はスクリーンを通して世界各地の不特定多数と繋がるものだから、そこらへんのメッセージ性の扱いはメディアとの相性もあるのだろう。だが、崩壊した家族の再生という側面が失われたために、なぜエヴァンの嘘がマーフィー家を救ったことになるのかがわからなくなってしまっていた。映画だけ見た人の感想眺めてると主人公の嘘の罪が大きすぎるというものが多いが、多分これは改変の弊害だと思う。舞台版だとマーフィー家もそんな温かい家庭じゃなくて、エバァンに騙されたというより自分たちの罪悪感を和らげるためにエバァンの嘘を利用した側面が明確だからもうちょっと罪が相殺されていた。Anybody Have A Map?があれば、もともとマーフィー家も崩壊してたことがわかるけど、それがないせいで「良き家族」をエバァンが勝手な憧れで介入して崩壊させたみたいになってて若干可哀想だった。

③    キャラ設定の変更 ―エゴイスティックな人間の本質の修正―
   エゴイスティックな人間たちがエゴイズムをぶつけ合う舞台版とは異なり。映画版のキャラたちはみんな、まさに"be yourself... but more approachable version of yourself!"という感じだった。
   中でもAlanaのキャラが変わりすぎていて、映画版だけ見たら良いシーンだと思うのかもしれないけど、舞台版の「ちょっと鬱陶しくて周囲から邪険に扱われがちだけど本当は深い孤独を抱えている」ということが伝わってくる演技も好きだったので残念だった。誰かも言ってたけど、いつも芝居がかってて鬱陶しい感じあるけど、"Because I know how it feels like to be invisible!"みたいなセリフだけ、正真正銘の本心を曝け出したんだなということが伝わり、彼女を鬱陶しく感じていた観客も自身の冷ややかな視線を突きつけられる…という容赦のない流れ。Alanaが象徴してたの「孤独に見えない子の孤独」というより、「『孤独だから必死だけど空回っちゃってるのが丸わかりの痛い子』の孤独を知りながら遠巻きに冷笑する我々」って感じだったから、このキャラ変はかなり大きい。
あとLarryのキャラ。義父設定は役者の人種が違うかららしいという情報を見かけたけど、「仕事を言い訳に家庭の厄介ごとは妻に丸投げする父親」が「血が繋がらずとも、他の男の手には追えなかったコナーを彼なりに愛した良い父親」に変化してるのも作品をぬるっとさせてるなって感じてしまった。
   別に映画化の意義は理解できるし難癖をつけたいわけではないんだけど、どの登場人物にも好感は持てないのになぜかちょっと共感できてきまう舞台版から、「より広く多くの観客の共感を呼ぶためにキャラ設定を修正して好感度をアップさせる」という行為の意味については考えてしまう。舞台版はエゴイストたちの群像劇としてもっと人間の本質を炙り出すような作品だったから、メンタルヘルスの教材化されてしまったのは、うん。教材が必要でないという意味ではなく、そもそも教材に相応しい作品ではないからうまくいってないよねって感じだった。

その他気になった点メモ
・あとやっぱり真実を告白したら相当エバァンも炎上して日常生活に脅威を及ぼすレベルになるかもしれないから、ちゃちゃっとストーリーをアップしておしまいというのはどうしてもリアリティに欠けちゃう
・そういえばDEH映画版の校内のシーンでやたら多様性を訴えるメッセージが書かれたポスターが映されていたけど、背景画像を通して観客にメッセージを送っているのか、それともストーリーとも相まってその空回りしてる部分を皮肉ってるのかがよくわからんかった…
細かいけど、エバァンがラリーに「君のお父さんも君のような息子を持って誇りに思っているだろう」みたいなこと言われてごまかすために肯定しちゃったのをTo Break in the Gloveの後に訂正するところが好きだったんだけど、曲とともに消えてた。
・You Will Be Foundがなかなか陳腐 
・↑が始まる前にEvanが1度スポットライトから陰へと逃げ込むけど、意を決してライトの中に戻って立ち上がるという動きがない 
・木のてっぺんが意外と暗い、もっと輝いてるイメージだった 
・落ち方を写したシーンの映像が曖昧でわかりにくい